ベリーダンスとは

ベリーダンスは中東およびその他のアラブ文化圏で発展したダンス・スタイルを指す言葉であり、これらを呼称するために造語された西洋の呼称である。
アラブ文化圏ではラクス・シャルキー(Raqs Sharqi رقص شرقي、「東方の踊り」の意)、ラクス・バラディー(Raqs Baladi رقص بلدي 「民族舞踏」の意)として知られ、トルコ語ではオルヤンタル・ダンス(Oryantal dansı、「東方舞踏」の意)として知られている。特に「ラクス・シャルキー」と言う言葉の起源はエジプトであるとされる。
ヨーロッパでも「オリエンタル・ダンス」「ダンス・オリエンタル」「エキゾチック・オリエンタルダンス」「オリエンタル・ベリーダンス」などの呼び名で知られ、アメリカ人の熱狂的なファンの中には単に「中東の踊り」と言えばこのベリーダンスであると述べる者もいる。

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概要 ...
ベリーダンスはイスラム時代以前のエジプトより、口承に基づき伝授され知られてきた。その起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。例えば紀元前5世紀ほど昔のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。 また、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる。
中東以外の地域においては、18世紀から19世紀に掛けて勃興したロマン主義運動の高まりの中で、オリエンタリズムの芸術家達がオスマン帝国のハレムの生活を解釈して描いた絵画のなかに登場したことにより、一般的に知られるに至った。
今日、中東諸国のダンサー達はさまざまな世界博覧会にてこのダンスを披露し始めるようになった。ダンサーたちの驚くべき技術と演技が衆目に公開され支持を受けたことにより、ベリーダンスは市民権を得始めたのである。
ダンサーの中には、映画化される者もいた。短編映画「Fatima's Dance」(ファティマのダンス)は広くニコロデオン劇場で公開された。しかしそれは「破廉恥("immodest")」な活動であるという批判をまねき、結局公の圧力により検閲されることになった。
中東が西洋列強による植民地主義の対象となっていた時代、西洋の女性の中には中東のダンスを学び、模倣する者も出始めた。マタ・ハリが最も有名な例だが、フランスの作家コレットもそうであった。多くのミュージックホールのパフォーマーたちが「オリエンタルダンス」に従事していたが、時には彼女達の独自の解釈をやめ、本来の民間伝承的なスタイルに立ち返って行うこともあった。
偉大なダンサーと言われるルト・セイント・デニスもまた、中東の踊りにインスピレーションを受けたダンサーであった。しかし、彼女のダンスに対するアプローチは西欧舞踏であるバレエのコンテキスト上に異邦の舞踏・「オリエンタルダンス」をおくものであり、彼女の目標はより優れた、敬意を払われるに値する舞踏を創出することにあった(イスラム社会と同様1900年代初頭の欧米社会においても、ダンサーの女性とはモラルに欠けた存在であるとして白眼視されていたためである)。
歴史上、ベリーダンスに関連したほとんどのダンスは、「男は男と」「女は女と」というように性別によって分けられて行われていた。男女混合のダンスは非常にまれな存在であった。これは「良い女性」は夫以外の男性とは踊らず、さもなくば近親か女性の仲間と一緒に踊るくらいしかないという習慣によるものである。この習慣は楽団にもおよび、そうして、女性の楽団員のみが女性のダンサーのために演奏を行うようになったのである。これは現在も多くの中東諸国で続いている。但し中には、プロのダンサーが楽団とともに女性の集まりに行き、女性達をダンスにかき立て、それから水煙草の店の男性達のもとへ連れて行き男性客のいる宴会で披露するものもある。
ベリーダンスは女性の肉体の「丸さ」「ふくよかさ」を前面に押し出したスタイルを採り、痩身であることを良しとするダイエット嗜好とは対照的である。ベリーダンスで使用されるほとんどの基本的なステップやテクニックは、体の部分ごとに分かれた円運動である。つまりは腰や肩を床と平行に別々に動かすのである。
ベリーダンスにおいて「ポップ・ロック」は通常、ダンサーが「シミー」をしなかったときや腰や肩の動きを停止したとき、また柔軟性を生かした離れ業をする際のアクセントとして使用される。この動きによって腹筋を回転させバランスをとり、シフォンヴェールやシルクヴェールなどのさまざまな小道具を支え、籠や剣、鞭のように見せるのである。

健康とベリーダンス ...
ベリーダンスのもたらす恩恵は精神にも健康にも存在する。ダンスは心肺能力によい働きをもたらし、身体の柔軟性と強靱さを増強させ、胴体や「コア・マッスル(体幹)」を引き締めるが、脚の筋力形成にもよい影響をもたらす。多くのベリーダンス・スタイルは筋肉の「孤立した動き」を強調するため、ダンスを学ぶことで様々な筋肉や独立した筋肉系統の動かし方を習得出来る。ヴェールを使ったダンスは腕や肩、他の上半身の筋肉を鍛えることに繋がり、ジルの演奏は筋力強化と指一本一本をバラバラに動かす事にも繋がる。ベリーダンスは全ての年齢・体型に適したダンスであり、参加する人に応じて肉体的な負荷を選択出来る。
どんな新しいルーティンの運動を始めるときもそうだが、ベリーダンスのレジュメを始める前には、個人的に医師と相談し、ベリーダンスのインストラクターと自分がこなせる難易度について話をしておくと良い(もちろん、普段から活動的な人より座りっぱなしな生活を送っている人の方が危険である)。多くのベリーダンサーが、その感覚の向上や自らの身体に対するイメージ・自己評価の向上、そして規則正しいルーティーンによってもたらされる大抵は前向きな見通しを、練習を楽しくこなすことによって得ているのである。
また他にも、逸話めいた証言が次のような事を示唆している。ベリーダンスの運動は腰周りの筋肉を力強く調和させ、女性はそれを通じて自らの筋肉の働きをよりよく理解する…そんな風にベリーダンスの練習は女性の出産に恩恵をもたらしたのだ、と。ダンスに使われるお尻の円運動は出産による疲労感を幾分か和らげるかもしれない。
スポーツクラブ等のスタジオプログラムにも取り入れられている。

ベリーダンスと痩身 ...
芸術的な側面がある一方で、ベリーダンスは健康促進プログラムの一環としても採用されている。循環器系統の完全なトレーニング効果と腹筋の強化をもたらす事が知られて以来、痩せたい男女の間でベリーダンスは急速に広まっている。60分間みっちりと練習をこなすことで、330キロカロリー分のエネルギーが消費されるだろう。

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ラクス・シャルキー ...
ラクス・シャルキーは性別を問わず、通常はひとりで、観衆や個人的に坐っている人間を楽しませるために演じられる。ベリーダンス(belly=腹)と言う別名とは裏腹に、ラクス・シャルキーは身体全体の筋肉運動を用いる。運動によって表現される「語彙」を基礎に置きつつもその表現を推し進め、音楽のリズムによってそれらの語彙を流動的に統合したダンスとされる。
踊り手は「ラクス・シャルキー」において、音楽が想起させる感情を内面に湛えたり表現するのである。ここにおいて音楽はダンスの運動の「語彙」と統合されている。
最も尊敬すべきラクス・シャルキーのダンサーはダンスを通じて感情を投影できたものである。たとえ、その動きの「語彙」がシンプルであってもである。音楽が観衆にもたらすリズムと感情を視覚的なレベルで伝える事が、ダンサーの目的であるとも言える。
多くの人がラクス・シャルキーを官能に彩られた、成熟した女性の存在の力を表現するためのダンスとして見る。ソハイル・ザーキー、 フィフィ・アブドゥ、ルーシーとダイナ、 彼女達はみなエジプトでは人気のあるダンサーたちであり、40歳以上である。この流派においては、若い踊り手はダンスを触媒にして何かを伝えるにはあまりにも乏しい人生経験しか有していないと考えている向きもある。
エジプトにおいては、伝統的かつ主流の様式である3つのダンスがベリーダンスと深い関係を持つ。Baladi、Sha'abi、そしてSharqiの3つである。
エジプトスタイルのベリーダンスは、サーミア・ガマールやターヒヤ・カリオカ、ナーイマ・アーケフと言った伝説的なベリーダンサーたちが創り上げた基礎に基づくものであり、他のダンサー達はエジプト映画産業の黄金時代と褒め称えている。彼女たちの創り上げた基礎を部分的に継承した後発のダンサーとしてはソハイル・ザーキー、フィフィ・アブドゥ、ナーグア・ファドが挙げられる。1960年代から80年代にかけて活躍した彼女たちは現在も高い人気を誇り、先達とほとんど変わらない名声と影響力を得ている。
なお、エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍はガワーズィー族との遭遇を果たした。ガワーズィー族はプロフェッショナルな芸人集団として、音楽家として生計を立てていた。売春を行う女性たちがいる一方で、ほとんどノマドの様な生活を送りつつも交易ルートを確立した街に居住していた。
遭遇した当初、フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた「野蛮な」踊りを見せる彼らの出現を嫌悪した。しかし、うっとりさせられるような彼らのダンスに自然と惹き付けられていくのにそう時間はかからなかった。
エジプト以外で、重要とされる様式を持つ国としてはトルコやシリア、レバノンが挙げられる。

トルコの様式 ...
トルコのオリエンタル・ダンスが「チフテテリ」として多くの人に信じられている誤解は、ギリシャ人とジプシーたちがオリエンタル・ダンスの中にそれぞれの音楽様式を混ぜ合わせていった事実によるものであり、その事はギリシャ人がベリーダンスを「チフテテリ」と呼んでいた事からも説明できる。しかし、トルコのチフェテテリはもっと正確には結婚式の民俗音楽の構成で、結婚式のダンスの陽気なパートで編成されたパートであり、オリエンタルダンスとは結びつかない。
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいたが、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った「姉妹」様式よりもロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けた、「オスマン帝国のラカス(rakkas)」から世界中に知られるオリエンタルダンスへと発展を遂げている。
トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった(エジプトでのダンサーたちは舞台活動と腰回りを用いた特定の振り付けを禁じられていた)ため、トルコのダンサーたちはエジプトのダンサーたちより表面上の表現手段がしばしば豊かである事も見受けられる。また、トルコ・ダンスがロマ人のルーツに近いままなのは、トルコ人のダンサーや音楽家たちがロマ民族の遺産をそのまま踏襲しているからである。しかしながら、ロマ人の遺産を引き継ぐ人々もまたターキッシュ・オリエンタル・スタイルとは違う独自のスタイルを確立した事も書き留めておかなければならない。
トルコ人ダンサーはエネルギッシュで強壮な(体操的ですらあった)スタイルと、特にここ近年では、ジルと呼ばれるフィンガーシンバルの扱いに精通したダンサーとして知られている。ターキッシュ・ダンスの目利きが、よく「ジルを上手く扱えないダンサーは熟練したダンサーではない」と言うほどのものである。他に挙げられるターキッシュ・スタイル独自の要素としては、「12-34-56-789」とカウントする9/8拍子のカルシルマ・リズムが挙げられる。
ターキッシュ・ベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていたが、今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかな「マーメイド」スタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。トルコの有名なベリーダンサーとしてはテュレイ・カラカやビルグル・ベライが挙げられる。
トルコやイラン、アラブ諸国からの移民がニューヨークへと移住を始めた1930年代から1940年代に掛けて、ダンサーたちはナイトクラブやレストランでそれぞれの踊りのスタイルをミックスしたダンスを披露し始めた。よく「クラシック・キャバレー」や「アメリカン・キャバレー」と呼ばれたこれらのベリーダンス、その踊り手はアナヒッド・ソフィアンやアルテミス・ムーアのように名手として現在名を知られている人々の祖母や曾祖母に当たる人々なのだ。

西洋におけるベリーダンスの受容と変遷 ...
「ベリー・ダンシング(お腹を使ったダンス)」と言う用語(「Beledi」ないし「Baladi」と呼ばれたダンス・スタイルの用語を誤訳してしまったものと考えられる)は1893年に開かれたシカゴ万博のディレクター、ソル・ブルームによって一般的に広められた。
しかし、ベリーダンサーそのものは1876年に開かれたフィラデルフィアの百年祭には存在していた。アメリカ中から注目を浴びるようになるまでには1893年を待たなければならなかった。中東諸国や北アフリカ諸国からやって来た本場のダンサーの中にはシリアからやって来た者、トルコやアルジェリアをルーツにも持つダンサーもいたが、「ストリート・イン・カイロ」と名付けられたエジプト風の劇場で披露されたダンサーたちの(アメリカにおける)公演は凄まじいまでの悪評を被ることとなってしまった。素早いお尻の動きやコルセットを着けないダンサーがいると言う事は、ヴィクトリア朝の感覚が支配していた時代には衝撃的なものとして受け止められたのである。この事は男女隔離・性的自由への抑圧は決してイスラム社会に限定されるものではなく、キリスト教社会にも同様に存在していることを示している。事実、アンソニー・カムストックを始めとする多数派によって「社会にとって抑制されるべき悪習の最たるもの」として攻撃を受けたエジプト・シアターは閉鎖に追い込まれている。
しかしながら一般に信じられているような「ファティマ」と言う名のダンサー、「リトル・エジプト」としても知られている踊り手がショーのノウハウを盗み、このダンス様式の普及に努めた…と言う主張を補強する証拠は何処にもない(ドナ・カールトン著:『Looking for Little Egypt』)。写真にも、エジプト・シアターでの公演に言及した幾人かのレビューにもそのようなものはないのである。写真と同じように娯楽記事にもソロ・ダンサーは存在せず、単独でのダンスが存在しない一座としての公演をエジプト・シアターで行ったとの記述が見受けられる、と言うことが事実なのだ。
万国博覧会の後、このダンス・スタイルの流行に伴って模造品のベリー・ダンサーが何ダースと言う単位で生み出され、その多くが自らをシカゴ万博に出演したダンサーと自称した。ファリダ・マシャール・スピロポロス、またの名を「リトル・エジプト」として知られる最も有名なダンサーは、万博後もアメリカに留まり「スピロポロス」と言う名のギリシャ人男性と結婚したと言われている。奇妙な話だが、彼女はエジプト人でもアルジェリア人でもなく、シリア人だった。彼女は中東からやって来たが、彼女があの万博の「ストリート・イン・カイロ」で踊っていたダンサーであると言う証拠は何処にもないのである。
自らを「リトル・エジプト」と自称した多くのダンサーたちによって舞われたダンスは「Hootchy-Kootchy」や「Hoochee-Coochee」とあだ名され、シミーと身体を震わせるスタイルが特徴だった。バーレスクのショーホールや祭りの余興などにおいて、まがい物のダンサーによってベリーダンス本来の姿について文化的に誤った理解とその誤伝が広まったため、西欧世界においてベリーダンスとはいかがわしく、エロティックな感情を連想させるダンスであると言うステレオタイプが(完全にそれが誤りとはいえないが)支配的である。ベリーダンスの別名である「danse du ventre」は、フランス語の原義に忠実に訳せば「お腹の踊り」と言うだけでなく、「欲望のダンス」ともなるのである。
ベリーダンスがそのような熱狂を作り出した理由として、トーマス・エジソンが1890年代に撮ったいくつかのフィルムの存在がある。1898年に撮られたエラ・ローラと、1897年に撮影されたクリシー・シェリダンのターキッシュ・ダンスが含まれた映像は、両方ともアメリカ議会図書館に所蔵されオンラインでの閲覧が可能となっている。他のコレクションとしては、1904年に撮られた「ジル(フィンガー・シンバル)」を操りながら「フロアー・ワーク(板張りの床の上で行うダンス)」をこなし、歯の上に椅子を乗せてバランスを取るプリンセス・ラジャの映像がある。
加えて、自らをジャワ島からやって来た王女と偽り、第一次世界大戦中にドイツのスパイとして1917年フランス軍に処刑されたマタ・ハリが、ヴォードヴィルやバーレスクでベリーダンスを披露し政治家連中からいかがわしい評判を得ていた事実がある、と言うセンセーショナルな物語もある。ハリウッドはベリー・ダンサーにいくつかの役割を…(解放奴隷の踊りであり、主演たちが会話している間のバックダンサーのための踊りであり、トリックを用いてメインの登場人物を騙す役割の悪女に相応しい踊りであったりと言うような)…与えたのみで、むしろベリーダンサーに対する偏見を助長させるような行動を取り、その名声や評判を手助けするようなことはなかった。今日のダンサーやダンス講師たちがその偏見を打ち砕くのには大変な労力を費やした。多くの「偏見をそのまま信じる人」が「中東のダンス」としてこの芸術を挙げる最大の理由が、このようにして醸成されたステレオタイプの存在に求められる。
西欧諸国において美しくクラシカルなラクス・シャルキーは根強い人気を誇っているが、多くのダンサーはインドや中東、北アフリカなどの民間伝承に拠って承継されているダンス様式やフラメンコにさえ刺激を受けて、それぞれの民族としてのスタイルとアメリカの伝統スタイルを融合させたダンスを創造している。アメリカのダンサーはベリーダンスの起源に対して敬意を払いつつ、自らを表現するのに必要なダンスに取り組む中で、探求と創造を続けている。現代のアメリカやヨーロッパの女性たちは、ベリーダンスを身体と精神、そして霊魂を鍛錬し強化するツールとして捉えている。
自らの身体に対するイメージ、自尊心、性的暴行からの回復、女性としての同胞意識、そして自己決定に関する問題は世界中に存在するベリーダンスの愛好者たちが真摯に取り組んでいる問題である。

アメリカにおけるベリーダンス ...
1876年にフィラデルフィアで行われた建国百年祭においてアメリカでの日の目を見たベリーダンスは、20世紀の最後の40年間でアメリカにおけるメジャーなダンスとして普及していった。ベリーダンスの現在の流行は1950年代から1960年代にまで遡る。ニューヨークのような大都市のエスニック・ナイトクラブで、多くのアメリカ人はベリーダンスにより親しみはじめた。これらのクラブはギリシャやトルコ、あるいはレバノンやシリアのような地中海沿岸諸国の民族集団に属する人々によって所有・経営され、支援された。この時、多くのダンサーがギリシャないしトルコをルーツとする者たちであったが、それと同様にアメリカ人も次第に数を増していった。ひとつの例として、ニューヨークの「モロッコ」と呼ばれたダンサーはギリシャタウンの8番街にあるナイトクラブでダンサーとしてのキャリアをスタートさせている。彼女たち、アメリカ人ダンサーは自分たちのパトロンと同じようにギリシャ人やトルコ人のダンサーを見つめ、ダンスを模倣し、自らのダンスを磨いていったのだ。
1960年代後半から1970年代初頭にかけて、多くのベリーダンサーが上流階級のダンスとして自らのダンスを披露し始めた。1960年代後半のアメリカ東部においてダンスの研鑽はより進み、多くの人々が東部の人々を虜にしたダンスに興味を持ち始めた。中東出身や、アメリカ東部出身の人間で構成されたバンドがダンサーを引き連れて巡業することで、音楽を視覚的に表現出来るこのダンスの爆発的ブームに一役買った。この巡業によって、より強くベリーダンスに興味をかき立てられるような美貌のダンサーたちが多く誕生した。
そしてベリーダンス・ムーブメントの深化に伴って、他の名で呼ばれても差し支えなさそうなシンプルな流派がいくつも生まれ、お互いの差異化を図るため「違うダンス」を教え合うようなことになってしまったベリーダンサーの教師たちはひとつの「スタイル」を確立する必要に迫られた。ベリーダンスをよりポピュラーなものとするための「スタイル」を創り上げることを妨げ続けた最大の問題は、振り付けを教えることでダンサーを「再生産」出来るような確固とした方法論がアメリカにおいて見当たらない点にあったのだ。
ベリーダンスが最も踊られるステージは依然としてナイトクラブであり(ラクス・シャルキー風ダンスを収めたビデオやDVDの流通もまた同じ事だった)、「民族舞踏」スタイルや「社交ダンス」スタイルなどよりずっとポピュラーなものとして扱われていた。ベリーダンスの衣装として現在連想されるものとして、(アラビア風やラクス・シャルキー風が知られているように)1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡っていった衣装が広く認知されている。20世紀末の間中、ヴォードヴィルやバーレスク、ハリウッドと言った「ハーレム幻想」を製品化するものたちは、実際に纏われている中東風のドレスよりそう言った「幻想」を優先させた。カイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために、身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装よりも、露出度の高いドレスを採用している…と言う話もある。
この衣装の最大の見せ所は上半身に密着したブラジャー風のトップス(たいてい、ビーズかコインがブラの周辺に飾られている)、お尻に密着したベルト(やはりここにもビーズかコインが飾り付けられている)、そして脚を覆うハーレム・パンツないしスカート(ストレートタイプだったり、サーキュラー・スカートだったり、パネル飾りがあしらわれたスカートだったり)である。アメリカにおいてはダンサーの動きに沿って舞う、ダンスを構成する一部として3.5ヤードから4ヤードの長さで作られた「ヴェール」も着用されている。1940年代のエジプト国王、ファールーク1世はロシアのバレエ講師・イヴァノワを娘のダンス教師に雇い、彼女は偉大なダンサーであるサーミア・ガマルにヴェールを舞わせる腕の動きを更に改良するような所作を最初に教えた。この結果、多くのエジプト・ダンサーが音楽の流れている間中ヴェールを使ったダンスを舞うようになった。エジプトにおいては、ナイトクラブのダンサーたちもまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏い、「バラージ・ドレス(民族衣装)」と称してラクス・シャルキー風のルーティーンを踊るようになった。このような装いはアメリカやヨーロッパにおいて、「キャンデラブラ・ダンス」と呼ばれる燭台を頭上に乗せて舞う民族舞踏を踊る際にも着られるようになった。
アメリカにおける最近のムーブメントは「アメリカン・トライバル・スタイル(ATSとも略される)・ベリーダンス」と呼ばれるダンスによって、民族舞踏にインスパイアされたダンスと北部インドや中東地域、そしてアフリカの古代のダンス技法を融合させた「概括的」な表現を試みる所にある。1980年代末、キャロリーナ・ネリッキオ(彼女はサンフランシスコで『FatChanceBellyDance』と言う団体を創始してもいる)によって考案されたこのダンス様式は、従うべきマナーの中にも即興性を盛り込んだ「ステップの持つ語彙」を内在させている様式として確立した。純粋な「ATS」はグループで踊られ、「ジル(フィンガーシンバル)」を伴奏楽器のように操りながらコーラスを歌う特徴を持つ。ATSにおいて音楽は民族音楽・現代音楽を問わず、衣装も重ね着され、いくつかの、もしくはありとあらゆる文化の影響を融合させた「伝統」を感じさせるものである。
西洋やアメリカのベリーダンスで形成され続けている他文化混合的な流行は、その活動を通じて今なお進行中である。発展を続けながら、ベリーダンスは多彩な側面を持つダンスとして、モダン・ファッションや映画・テレビなどの発信するイメージ、ロックやヒップホップの世界観、アンダーグラウンド・サブカルチャー、など…そんな要素が渾然一体となった現代文化を吸収し続けている。このように雑多な様式を吸収したベリーダンスに対して、「トライバル・フュージョン(民族文化融合)」と言う意味も含めた「ベリーダンス・フュージョン」と言う大ざっぱな表現を与えることも出来るだろう。現在、最先端を行く「ベリーダンス・フュージョン」のひとつとして、多くのベリーダンスの様式やモチーフを混ぜ合わせ、そしてゴシック音楽や哲学、あるいはゴシックの生活様式などからインスピレーションを受けた、「未知の闇」を表現する方法を探求する「ゴシック・ベリーダンス」がある


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(お問い合わせは京都スポーツクラブイリアスにて承ります)
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